島の歴史は柑橘の歴史
2回目の広島県呉市の現地レポート。前回は、レモンのふるさと“とびしま海道”の地理や歴史をご紹介しました。今回は島へ上陸し、レモンの歴史を辿っていきます。
2018年3月、とびしま海道を訪れた立川レモンプロジェクトのメンバーは、大崎下島にある「みかんメッセージ館」を訪れました。呉市が2014年に開設したこの施設では、大崎下島におけるみかんづくりの歴史をパネルやジオラマ模型などで紹介されています。島の大長(おおちょう)地区でミカンの栽培がはじまったのは、遡ること200年前。1818年(文政元年)のこと。ミカン栽培で全国に名を馳せてきた大崎下島。柑橘を育ててきたその土壌と技術が、その後のレモン栽培にも繋がっています。
ミカン栽培のスタートから90年後の1898年(明治31年)、いよいよレモンの栽培がはじまります。事の発端は、大長が和歌山県からネーブルの苗木を購入したこと。送られてきた貨物の中に、レモンの苗木が3本混入していたのです。数ある品種の内、リスボン系と推測されているこの苗木を大長の農家が試植したことが、“国内におけるレモン栽培のはじまり”といわれています。
明治末期から大正初期にかけて、貴重なレモンの価格は高騰し、大長を中心にレモン栽培は急激に普及していきました。そして、島での栽培開始からわずか16年後の1914年(大正3年)には、広島県内での栽培面積が11ヘクタールに、そしてさらに約40年が経った1953年(昭和28年)には、18ヘクタールまで増え、国内の栽培面積の70%を超える規模になっていきます。
採れたての果実を背負って
島の歴史を話しながら、みかんメッセージ館を案内してくださったのは「とびしま柑橘倶楽部」の秦利宏さん。島の耕作放棄地再生を行う「黄金の島再生プロジェクト」などに取り組まれています。
みかんメッセージ館の展示の中で、一際目を引くのが収穫した果実の運搬用具。山にある畑から麓へ下ろす方法は、ミカンもレモンも同じです。最大傾斜が30〜40度にもなる急な山肌は身一つで上り下りするだけでも大変ですが、明治時代には、“背負子(おいこ)”と呼ばれるリュックのようなもので1つ20kgはある木箱を背負って運んでいました。多い人では一度に4〜6箱も運んでいたといいます。『当時は、10万円分くらいの果実を背負って、お金を持たずに海を渡って四国まで行っては、売ったお金で買い物をしたり遊んだりして帰って来ていたと聞きます』と秦さん。
大正時代になると、“策道(さくどう)”と呼ばれるロープウェイで一気に運べるようになります。蜘蛛の巣のように島中にワイヤーが張り巡らされた様子は、館内のジオラマで見ることができます。昭和に入ると、農道の整備が進み、自動三輪車が登場します。島民たちはこれを“ガーガーバタンコ”と呼んでいたのだとか。
そして1969年(昭和44年)、ついに動力の付いた“モノラック”が導入され、飛躍的に労力と効率が改善されました。今でもモノラックは現役。畑から近くの農道までモノラックで果実を運び、そこから軽トラックに乗せ替えるのが主流です。そう考えると、50年間同じ運搬方法を取っていることになります。
『ちょうど最近、ドローンを畑の見回りに活用する実験をはじめたところなんです。何トンも持ち上げて移動できるドローンもあるので、これから新しい運搬方法を探していきたいと思っています』と秦さんは意気込みたっぷり。国産レモンの盛り上がりとともに、レモン畑にも革新が生まれようとしています。
とびしま海道の島にあるレモン畑は、島民たちが木を伐採し土を耕し、汗水垂らして切り拓いてきた土地。急な斜面の土は小石混じりで水はけがよく、適度な湿度を保つことができるため、柑橘類の栽培に最適です。さらに、年間を通して温暖で雨の少ない気候、太陽からの日差しと海からの照り返し、ミネラルを含んだ潮風が吹き上げてくるこの島々は、日本初のレモン栽培にふさわしい理想郷だったのです。
みかんメッセージ館で知った歴史に思いを馳せながら、次は同じ島にあるレモン畑へ。その様子はまた後日お届けします。
Writing/國廣愛佳
Photo/寺島由里佳