できたら、本と飲み物を。#4 決定的な瞬間を待っている

できたら、本と飲み物を。#4 決定的な瞬間を待っている

生まれてこのかた、東京都府中市で暮らしている。飲んだり読んだりしながら歩いた、多摩エリアの風景を書き綴っていくエッセイ。

自然は書き割りの街並みとなり、他者は役者となる

2021年になったというものの、先行き不透明な情勢がつづいている。ぷらぷらと街へ出る代わりに、記憶の中にある風景を思い起こしてみる。わたしは街に感情が刻印されていくということを、どこか美しいものであると思っている。ゆえに、毎日の生活の中で、決定的な瞬間を待ってしまっている。これは下劣なことであると思う。目の前にあるのはいつも、私が制御しようもない自然と、同じく私が侵犯しようもない生身の他者である。それなのに私はそれらの風景から、どろどろと混濁した生命を自分勝手に抜き去って、透明化してしまうのだ。そこにおいて自然は書き割りの街並みとなり、他者は役者となる、対象の意志とは無関係にして。だがわたしはどうしても、決定的な瞬間に出会ったときに、眼前の景色を見ながらもその風景が現れ方を変えて心象風景となることを思わずにいられない。これは今ではほとんど習慣のようになってしまっていて、眼前の景色から心象風景への移行は気づかれえないほどの素早さで行われている。もっと幼かったころはその移行が今より緩慢であったために、わたしはその移行の存在、及びその下劣さに気づくことが出来たのだ。2020年冬の、そんな決定的な瞬間について思い出してみようと思う。

ドアが開く、乗る、吊革を掴む

朝の電車はみな先を急いでいる。乗換駅ではドアが開いた途端にこぼれ落ちるように人が流れて、ホームのエスカレーターを駆け下りてゆく。わたしもその波のなかの一粒となって、スムーズにエスカレーターを下りてゆく。中学・高校と6年間、すし詰めの通勤電車に乗って通学するうちに、そんな気忙しいリズムはごく自然と身体のなかに埋め込まれていった。流れるようにエスカレーターを駆け下りた次は、迷うことなく3号車1番ドアへ(目的駅のホームの階段に近いから)、座席横の仕切りにもたれて立ちたい、だけどあの場所はドア付近だから混み合っている時は乗降のたびに一旦降りなくてはいけない、一旦降りている間に他の人にそのポジションを奪われることもある、そうなったらもうもたれるところもないのにいちいち降りなくてはいけなくなる、そんなリスクを冒すことはやめてはじめから吊革を掴める位置にいよう、電車がホームに入ってくる、ドアが開く、乗る、吊革を掴む。

音符みたいにエスカレーターに乗った

12月のある曇りの日にも、わたしは電車に乗っていた。それは太陽が沈む少し前であって、朝ではなかった。乗換駅に着いたとき、気忙しいリズムに慣れきったわたしの身体は疑問を挟まずに波の一粒となって動いたのだけれど、私はいつまでも一粒の水滴のままだった。エスカレーターを降りるわたしの前にはただ1人のおじさんがいて、その人もおそらく一粒の水滴だった。おじさんはスムーズな動きを止めると振り向いて、波の続かぬ背後を少しだけ不思議そうに見た。ほかの乗客は電車のドアが開くとぽつんぽつんと降りてきて、音符みたいにエスカレーターに乗った。そしてわたしは、その風景をしごく自然だと思ったのだった。流れていく音符たちは特有の重みを持って、わたしの中に残った。この景色に感情が刻印されたのだ、と思った。

大晦日の深夜にやることではなかった

「思い出はたくさんあるに越したことはない」と言う人の思い出が、わたしの言う心象風景と同じ類いの言葉であるのならば、わたしはその考えに反対である。あまりに多いとその一つ一つを思い出すことすらできないし、わたしは両手に抱えきれないほどの思い出をそれに適したやり方で、きちんと大切にしていける自信がない。思い出は少しあればいい。決定的な瞬間を待ってしまうのは、そのごく僅かな機会をつかみ損ねないようにするためでもあるのかもしれない。思い出は少しあればいいのだが、本と洋服はたくさんほしい。既に家にある本棚がいっぱいになってしまい、新たに買った本棚を組み立てている最中に、わたしは暗い部屋でひとり2021年を迎えた。大晦日の深夜にやることではなかった。1月の終わりごろに初詣に行って、なんとなくおみくじを引いたら大吉だった。失物は思いもよらないところから出てくるらしいので、メガネを置いた場所を忘れた時に参考にしようと思う。


川窪 亜都 (かわくぼ あど)

2000年生まれ。

都内の大学に通っている。散歩好き。

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