できたら、本と飲み物を。#3 夜から延びた朝

できたら、本と飲み物を。#3 夜から延びた朝

生まれてこのかた、東京都府中市で暮らしている。読んだり飲んだりして歩いた、多摩エリアの風景を書き綴っていくエッセイ。

「眠れないときは映画を観たり(星を掴まえたり、身体中のホクロの数を数えたり)しています」

夜の1時に眠れない。眠れないときは眠ることを諦めて、そのまま起きることにしている。映画を観たり、撮りためたテレビ番組を見たり、本を読んだり。

「眠れないときは映画を観たりしています」

という場合、眠れないときには常に映画を観ているわけではなくてそこには言外のニュアンスが含まれている。

「眠れないときは映画を観たり(撮りためたテレビ番組を見たり、本を読んだり)しています」

という具合だ。“たり”を1回しか使わないという場合は、この括弧の中身の部分を受け手に委ねることになり、そこには無限の可能性が広がることになる。この場合、

「眠れないときは映画を観たり(星を掴まえたり、身体中のホクロの数を数えたり)しています」

ということだって考えられるのだ。あり得た、あるいはあり得る現実が無限に浮かび上がってくる。並行する現実のことを考えても仕方がないのに、そんな現実にはいつまでも考えていられるような強い引力がある。その引力に身を任せていると、手の中にある現実が停滞してしまって何もつかみ取ることが出来なくなる。無限は恐ろしい。甘美だけれど、浸りすぎると命の輪郭が奪われてしまうから。

“たり”を使うときは2回以上重ねて使わなければいけません。

“たり”を使うときは2回以上重ねて使わなければいけません、と小学校のときの先生が言っていた。人が話したことに盲従する性格ではないのだが、確かに“たり”と文章の中に入れるなら具体例を2つ3つ入れないと恐ろしいことが起きるな、とそのときに思ったから、それ以来“たり”は重ねて使うようにしていて、時々無限の甘さに浸りたくなったときに1回で使うようにしている。

こんなことをつらつらと考えているうちに朝の5時になり、テレビではニュース番組が始まって、太陽が昇る。夜中に起きているとロクなことを考えない。

夜道ですれ違う人に挨拶をされるのはなぜだか不審である。

調布市・小金井市・三鷹市にまたがって敷地が広がる、野川公園という都立公園がある。幼いときにはよく訪れた記憶があるが、最近は全く行っていない。小学校の頃を思い出したついでに、この公園まで朝の散歩に出かけてみることにした。少しだけ電車に揺られて公園に着く。

公園を歩いていると何度か、おはようございます、とすれ違う人に挨拶をされた。普段私が散歩するのは夜が多い。早朝散歩初心者の私は、声をかけられると一瞬身構えてしまい、「……ざいます」くらいの声量でしか返すことができなかった。届かなかった“おはようご”が宙を舞っている。

豪邸

夜の散歩でもすれ違う人たちに“こんばんは”と言ってみようかな、と考えたけれど、夜道ですれ違う人に挨拶をされるのはなぜだか不審である。時間帯が異なるだけでこうも印象が変わるのか、と思った。やはり夜は孤独の色をしているのだろう。

三鷹駅の近くに朝早くから開いている喫茶店があるので、そこを終着点とした。野川公園から新小金井駅まで歩く。

道中には小さめのトンネルがあった

新小金井駅からふた駅分だけ電車に乗る。電車は通勤通学をする人たちで混み合っていた。夜から延びた朝にも無限の甘さがある。たどり着いたブラックコーヒーは苦い。


川窪 亜都(かわくぼ あど)

2000年生まれ。

都内の大学に通っている。散歩好き。

instagram:https://www.instagram.com/19458f22/

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